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WAC香川みらい
政治は私たちの問題ネットワーク
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◆◆◆みどりの風 NO.5◆◆◆
2000.7.15
豊島事件が残したもの
 去る6月6日豊島の産業廃棄物問題をめぐる国の公害調停が成立した。反対運動が起こってから25年、調停申請から6年半を経て、全面解決した。知事も正式に謝罪し、豊島住民会議もこれを受け入れた。まことにみごとに問題が解決されたように思われる。しかし本当に全面解決したのだろうか。この事件で一体何が問われていたのだろうか。ただ単に「ゴミを撤去せよ。」「撤去する。」といことだけだっただろうか。私は「戦後の民主主義」そのものが問われていたと思っている。
 まず第一に国際化する日本経済の運営の中で「欧米に追いつけ。追いこせ」というスローガンのもとで生産のみを重視してきた産業政策(いわば動脈産業)そのものが問われたのである。商品とは、生産され流通過程を経て消費される。
 しかし消費されたものが廃棄物として残る。これを処理するシステム、いわゆる静脈産業も動脈産業に劣らず重要であることを豊島事件は国民に知らしめたのである。次に環境問題である。私が経済学を学んだ頃は、環境は経済成長の制約条件ではなかった。制約条件の中で最も大事なものが「国際収支の赤字」であった。アメリカの市場は無限大でありここへ大量輸出してドルを稼ぐ。それに伴い原料を大量に輸出するため国際収支が赤字になる。すると財政政策、金融政策で引き締める。国際収支の赤字が好転すると引き締め政策を解除するといったパターンが多かった。しかし、今や環境問題は「生物としての人間」そのものの生存が問われているのである。環境ホルモン、ダイオキシン、酸性雨、CO2による地球温暖化etc。「宇宙船地球号」で自然の一片として生きる生物としての人間は、この環境問題の解決なくして生存が不可能なのである。豊島事件はそれを教えてくれたのである。そして地方自治の問題である。地方自治とは住民が参加し、その同意のもとに身近な自分たちの事務を処理することが大原則である。
 しかし日本の地方自治は中央集権的官治行政のもとでは空洞化しているのである。この4月まで機関委任事務といって国の仕事を都道府県の7割、市町村の8割がこの仕事をしていた。これは東京の主務大臣の機関としての事務を委任され処理するために地方議会の権限は及ばない。廃棄物行政もその一つであった。厚生省でつくられた法令・規則等を順守するのが県の立場であった。その運用を謝ったのである。地方分権一括法が4月から施行されたが、財源は保証されず3割自治と揶揄されている。さらに県庁の体質にも問題がある。県職員は住民の方をみていないのである。「上司をみている」「勤務評定をする上司をみている」のである。そして県庁全体で東京を向いている。タテマエとして「住民本位」といいながら「自分の地位」「昇進」に軸足が置かれている。公務員は原点にかえり今こそ憲法にいう「全体の奉仕者」の条文を肝に銘じるべきである。今回担当者2名が訓告処分をうけたが、これも地方公務員法の処分ではない。300億いやそれ以上の税金を使うというのに、この処分は如何なものか議論に値しないだろうか。次に情報公開の問題を指摘したい。情報公開とは、民主主義を守り、育て進めていくものである。
 日本では「依らしむべからず。知らしむべからず。」という徳川時代の慣行を守っているように思えてならない。やっと国でも「情報公開法」が制定されたが、庶民の求める情報公開とはかけ離れている。中坊弁護士が手弁当で無償で働いているのなら、香川県の田代弁護士へいくら支払っているのか公開してもいいのではないか。とにかく香川県の説明責任(アカウンタビリティー)が全く機能していないのが、豊島事件の特徴である。そして何よりも問題なのが日本の「集権的官治行政」である。そして政・官・業の鉄の三角形である。すべての権限を「霞ヶ関」にうつし、与党はそこが作った法案を通すための道具となってしまっている。国会が機能していないのである。
 豊島事件を契機としてリサイクル社会の必要性が痛感され「循環型社会基本法」が成立した。その中で製造者の責任が強化され一定範囲でメーカーにリサイクルを義務づける「拡大生産者責任」が規定された。一歩前進だが、産業界は「企業だけに責任を押しつけるな」と反対している。産業界は政府与党に政治献金をしているから、政府はメーカーに完全な責任を押しつけることはできなかった。不完全な形で「生産者責任」が明示されることとなった。この鉄の政官業体制を打破しないと完全なリサイクル社会が成立しないのである。豊島事件が私たちに残した問題は多彩なのである。「豊島」が終ったととらえてはならない。私たちは「豊島」事件の行く末をいつまでも見守る姿勢を持ちつづけなければならない。そして県、県議会、県民をも含めて豊島事件をあらゆる観点から検証し総括しなければ「豊島」の遺したあまりにも大きすぎる負の遺産を活かす道はないのである。豊島の住民が困難と闘いつづけることによって大きく成長したように香川県も「豊島」事件によって、これを契機に鮮やかに転身し美しい自然を回復するとともに環境行政においても、地方自治においても、他の自治体をぬきん出た先進県となることを切望するものである。

みどり政経塾講義(明日の日本の政治の座標軸はどうあるべきか【下】)

(2) リベラル
 「リベラリズム」という言葉は「自由主義」と日本語訳されることが多い。しかしこの日本語訳では必ずしも適訳ではないと思われる。新保守主義と対立し、日本の政治のゆくえを考える上でのキーワードであるにもかかわらず最適な日本語がないため、ここでは「リベラル」という言葉を使おう。リベラリストは、保守、新保守主義者たちを若々しく思いもっと人権に重きをおき「質的価値」を求める人たちのことである。新党さきがけなどがその代表であった。
 新保守主義者を「国権派」とよべば、リベラルは「民権派」といってもよいだろう。「友愛」を主唱する鳩山由起夫氏もその一人である。経済政策についても保守主義者の言う「公正」とは大きくへだたっている。結果として生じた所得分配の不平等を全面的に個人の努力と見なすのか、それとも、少なくともその一部を何らかの機会不平等に起因するものなのかが「保守」と「リベラル」の「公正」観を分かつ分岐点となる。所得分配の格差(金持ちと貧乏人の差)が真に個々人の能力と努力のみ起因するものだとすれば、累進所得課税により格差を是正するのは「不公正」といえる。
なぜなら高い能力と努力・努力によって報われた収入は、本来その人に報われて当然だからである。
 しかし貧しさには、それなりの理由があると思われる。親が貧しかった。子供の時父や母を失った。十分な教育を受けられなかった。若い頃健康を害した。生まれつき体が弱い等々。本人には責任のない何らかの不幸な出来事のためそうなっているのだから「本人の自助努力が足りない」ときめつけてしまうのはあまりにも短絡的ではないだろうか。だからこそ逆境にある人たちを救う社会的装置としての福祉は民主主義社会における必要にして不可欠な制度なのだとする。累進所得課税は結果として生じた不平等を是正するため堅持すべきだとする。その他リベラリストは経済運営において、ケインズ主義者であり「大きな政府」を主張し、また「機会の平等」より「結果の平等」を重視するのである。

(3) 第3の道
イギリスのブレア首相が提唱する第3の道とはなにか。私なりに考えた。市場原理主義、グローバル経済を万能視する右派新保守主義者と決別する。そして左派すなわち国家統制を自己目的化する左翼原理主義者(社会主義者、共産主義者)たちとも決別することである。
 すなわち自由主義、資産主義の「効率の実現」を民主主義の原則に則って強く進める。平等を求める社会主義の理想(公正の実現」を民主主義の原則に則って押し進める。古い言葉でいえば社会民主主義の思想といえる。現代流でいえば、正義と自由・平等を信じて個人の要求を満たす力強い社会の建設をすることが第3の道である。

(4)展望(編集後記に代えて)
2回にわたって主な政治的潮流について学んできた。政治は混沌としていてつかみどころのないように見えるが、新保守主義、リベラル、第3の道といった大きな流れとその枝別れのような支流が互いに離れたり交錯したりしながら、「人類の幸せ」という大海をめざして流れようとしている。
 さて、「日本」はお手本のない21世紀へ向かってどこへいくべきだろうか。先の衆議院選挙を見るに、まだ政治家自身もまた国民も、まだその道筋を自覚するまでには至っていない。私たちは政治を私たちの問題とし議論する中で確かな流れの道筋をあぶり出したいと考えている。



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